「寒水白粥 凡骨将死」のお話

住職のおはなし

十一月に入り、洗い物をする水が冷たく感じられるようになってきました。十一月七日には立冬もすぎ、温泉でゆっくり体を温めたいなと思うこの頃です。
 
 さて、そんなときに千葉県市川市にある中山法華経寺では毎年十一月一日から百日間の修行が始まります。この修行は大荒行ともよばれ、命がけの修行をします。三時間にみたない睡眠時間、日に二回のお粥と野菜のわずかな食事、数時間おきの水行と、読経がひたすら続きます。このような修行の様相をあらわした言葉がお堂にかかげられています。

 寒水白粥 凡骨将死(かんすいびゃくじゅく ぼんこつ、まさにかれなんとす)
 理懴事悔 聖胎自生(りさんじげ しょうたい、おのずからしょうず)

 冷たい水をかぶり、粗末な白がゆを食べる。これまでの贅沢な自分はまさに死に趣く。
 気づくことができなかった罪を悟れば、心に思うこと、行いすべてが懴悔の行となる。するといつのまにか自分の中に仏さまの種を見出すことができる。
 
 なにやら難しい文ではありますが、これは前半と後半がそれぞれ行動と結果に分かれています。

 寒水をかぶり質素な食事をする(行動)→欲まみれの自分は一度滅びる(結果)→
 気持ちと行動を改める(その結果をうけてさらに行動)→仏さまを見出す(結果)
 
 この文の大切なところは、欲まみれだった自分も、仏さまを見出したのも同じ体の自分だということです。これは難しい言葉でいえば即身成仏となります。

 また懴悔することは主に宗教上の罪の自覚となります。仏さまの御心におすがりし、一心にすべてを信じ捧げる心こそがお題目(南無妙法蓮華経)となります。そうすることによって自己の内に仏性、お題目を見出すことができると、まさに法華経の真髄をあらわされているといえます。
 そのために水をかぶり厳しい修行をするのが荒行でありますが、それ以前に、つまり冷たい水をかぶる以前に、なぜ自分はそのような行をしにいくのかという目的が一番重要だとされます。

 私が学生時代をすごした清水房というお寺には、日像(にちぞう)上人のお像の前に「目的と役割をもって」という訓戒が示されていました。この日像上人は日蓮聖人の孫弟子で、京都での布教を託された人物でした。
 その命がけの京都布教にあたり、鎌倉由比ガ浜で百日間の寒行をなさったのです。日像上人の場合は聖人の意志を継ぎ京都弘通を達成するためにこの修行をなされました。
 
 毎日見ていたはずの「目的と役割をもって」という言葉に、こんなに重い意味があったのかと、最近になって思うことができるようになってきました。私も荒行に入る前には自分の目的をもって、荒行堂の中、さらには人生の中においての役割を全うできる人間になりたいと強く思います。(佐藤勇光)

 

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