日蓮堂のお話

住職のおはなし

「日本の仏僧で、ひとつの経典と仏法のために命を賭して立ち上がったのは、わたしたちの知る限り蓮長(日蓮)ただひとりであり、その後に続く例はひとつとしてありません」

 これは敬虔なキリスト教徒であった内村鑑三氏がその著書『代表的日本人』で日蓮聖人について述べた一節です。同書は明治時代に欧米に向けて日本の精神や文化を紹介するために英語で書かれたもので、日本を代表する宗教者として日蓮聖人を選ばれました。

 日蓮聖人は正直なひとです。まず、日本に伝わっている仏法をすべて真実として受け止め、そのうえで研究をなされました。そして、すべての経典と諸仏の御心、根源は法華経にあると確信し、それまで誰も整理できなかった純粋な法華経の教えを確立させたのです。約二五〇〇年前にインドのお釈迦さまの口からでた言葉が、アジアの国々、中国や韓国を経るにつれて膨大な経典・思想・学問となり、ついには日本に辿り着き、法華経をもって日蓮聖人が帰結させたというのは大変な偉業です。法華思想、ひいては仏教全体の完結者が日蓮聖人であるともいえます。誰より仏典を研究され、誰より素直に仏さまの言葉に随い、日本史上、最も純粋に信仰に生き、宗教者として人生を全うしたという意味で内村鑑三氏は日蓮聖人を紹介されたのでしょう。

 さて、この日蓮聖人が生きておられた時代は鎌倉時代です。鎌倉時代は鎌倉武士の活躍、鎌倉新仏教の誕生など、厳しい時代ながら人々の何かを成し遂げようとする力が満ち溢れていた時代です。作家の司馬遼太郎氏は著書『二十一世紀に生きる君たちへ』で未来の子供たちに次のような言葉をのこしています。

 「鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、大切にしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格をもたねばならない。男女とも、たのもしくない人格に魅力を感じないのである。」

 日蓮聖人は教えを弘めるために鎌倉で布教をなさいました。その方法は僧侶でありますから、宗教的な理論をもって教判を重ねていきます。決して武力に頼ることはありませんでした。しかし敵対する勢力からは石を投げられ、住居に火をつけられ、刀で額を切られるなど、いつ命を奪われてもおかしくない迫害を加えられたのですが、生涯、信仰を失わず、ついに仏さまの言葉に背くことはありませんでした。ここに、宗教者として真の「たのもしさ」をみることができます。

 令和三年十二月、日蓮聖人が鎌倉で辻説法をしていたその場所に「鎌倉日蓮堂」が完成いたしました。堂内には鎌倉で布教されていたころの日蓮聖人を模した、三十歳代前半の逆境を耐え忍び布教しているお姿の説法像が奉安されています。普段、私たちがお寺の本堂で拝見する日蓮聖人よりも痩せておられ、衣も粗末なものですが、その心の内には仏さまのまごころをもって、すべての人々を導くべく立ち上がった「たのもしい」お姿です。そのお姿の前で手を合わせれば、きっと日蓮聖人の信仰の息吹を感じることができることでしょう。(佐藤勇光)

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