日蓮聖人のお話

住職のおはなし

千葉県鴨川市小湊に、私ども日蓮宗の大本山である「誕生寺」があります。日蓮聖人は小湊で生まれたとされており、前号でお伝えしたよう今年は日蓮聖人御降誕(ごこうたん)800年の記念年でございます。

漁師の子とされ、故郷近くの清澄寺(せいちょうじ)で出家されると、鎌倉や京都、比叡山など仏教の中心地で勉学に励まれた日蓮聖人はひとつの疑問を抱かれます。

それは「仏教の信仰は盛んなのに、なぜ災害が起き人々は苦しまなければならないのか」という違和感でした。そして修行を通じてたどり着いた答えが、「お釈迦さまの正しい教えである法華経がないがしろにされている」というもの。

当時はひたすら念仏を唱えることで死後「阿弥陀如来の住まう浄土へ行くことができる」という教えが広がっていました。しかし日蓮聖人は「それは違いますよ」と北条時頼に訴えます。さらに「このまま放っておくと、国内で反乱が起きますよ」と主張をされたので日蓮聖人は伊豆に流されてしまうのです。

なぜ日蓮聖人は念仏を批判したのでしょうか、それは法華経こそ「お釈迦さまの真意」が備わっていると考えられたからです。「南無妙法蓮華経」というお題目は法華経をよりどころ(南無)にするという意味になります。

一方、日蓮聖人が批判された念仏は「南無阿弥陀仏」と唱えます。よりどころの対象が「阿弥陀仏」と「法華経」では意味が大きく違います。

阿弥陀仏に救済を求めるのは他力本願であり、法華経を信仰するはあくまで自分。日蓮聖人は阿弥陀仏のあの世ではなく、この世をお釈迦さまの住む永遠の浄土として救済しようとされました。

浄土宗の教えはこの世にたいしてあまり肯定的ではありません。しかし、日蓮宗の教えはこの世が浄土という思想です。

振り返ってみても私たちは宗教と社会生活を切り離して生きることはできません。宗教がなければ何の変化がない無機質な毎日が続きます。誰だって「ただいま」「お帰り」と挨拶をかわしたほうが人生がより豊かになり、「いただきます」「ごちそうさま」と合掌をする食事のほうが美味しいのです。

法華経はみんなが共によい生き方を実現しようと生まれた経典です。格差社会が広がる今こそ、今月のお施餓鬼法要を通じ仏教の在り方を学んでいきましょう。

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