お日願の話

住職のおはなし

  先月は春のお彼岸法要がございました。お彼岸はもともと「日願(ひがん)」と表記したようです。

「彼岸を日願だなんて言葉遊びでしょ」とお思いでしょうが、私が経験した修行の中にも「日に願う」「日を拝む」という礼法が確かにございました。

 身延山久遠寺の朝のお勤めでは、東の空に向かって唱えるお題目がお勤めの総締めでございましたし、荒行堂でも日天子(にってんじ)という太陽を神格化した御本尊さまへ捧げる毎朝の勤行(ごんぎょう)というものがございました。

 東天から昇る朝日を拝みますので、お堂の窓を全開にいたします。真冬の極寒の中、開いた窓から冷たい風がぴゅーとお堂の中に舞い込み「早く窓を閉めてほしい」と泣きながらお経を読ませて頂いたものでした。

 というのは今では笑い話でございますが、何はともあれ「太陽を拝む」ことが日願の始まりであり、その合掌には「自然感謝」や「先祖供養」の念がこめられました。

 朝は東の堂に参って日の出を迎え、昼は南の堂へ、夕方は西の堂へ参って日の入りを送るという習慣を「日迎え日送り」と申します。今でも京都方面で続けられる大切な風習です。

 堂に参るのは大変ですが、田舎のおじいちゃん、おばあちゃんが朝日に向かってバンパンと2回手を叩いて、拝んでいる姿は、なんだかみているこちらの心がホッと致しますね。

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