開教偈のお話し(6)

住職のおはなし

  「能詮は報身 所詮は法身」

能詮とは「経文に説かれているもの」という意味で、ここでは如来壽量品を指します。

如来壽量品にはお釈迦様は2500年前にインドの地にお生まれになり、19歳の時に出家、30歳で仏陀となられたと思っているかもしれないが、それはあくまで人々を教導し救護するための方便であって、真実には五百億塵点という久遠の昔に仏陀となり、それ以後、衆生救済のために繰り返し繰り返し、この娑婆国土に現れて教導し、未来永劫にわたってこの活動が止むことはないと説かれています。

但し人々は仏陀がこの世にましますと修行したいと思わなくなるので、仏陀は涅槃に入って人々に佛を渇仰し恋慕せしめるのだといいます。

この如来壽量品に説かれたお釈迦様のことを「久遠の本仏」といいます。報身とは菩薩が長い期間にわたって修行をした結果、その功徳によって報われて悟りを開いた仏陀のことをいいます。
次に所詮とは「経文に説かれているものの奥に秘められているもの」ということです。簡単にいうと能詮=あらわすもの。所詮=あらわされたもの。

法華経の摂理では仏が久遠の存在ならば、私たちも久遠の存在なのです。これは私たちの本質は仏そのものということであり、法身といいます。
法身とは妙法の真理を体としているという意味です。人間だけでなく全てのものは妙法の真理を体としています。

日蓮聖人の顕された大曼荼羅御本尊の中央にある南無妙法蓮華経は妙法の真理をあらわしたものです。左右には上は仏界から下は地獄界に至るまで十界の衆生が書かれています。十界の衆生とは魂のレベルです。
魂のレベルは人によって、物によって違うんだけど、すべては妙法を体としているから、本質は同体であり、相互しているということです。

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