お釈迦様にとって「友達」と「修行者」は同じ意味でした。お弟子の中の舎利弗さんと目連さんの仲の良さを惚れ惚れと見ておられたようです。
ある時に弟子がお釈迦様に尋ねます。
「良き友を得ることと悟りと、どう関係あるのですか?」
「そうではない、良き友を得ること自体が悟りなのだ」
そこまで言い切っておられます。良き友達になりますと、お互いを教え合います。人間は自分の知っている世界の中でしか生きれません。自分の知らないところでも物事は働いています。そのことを普段から意識することもなかなかできません。
友達は自分の知らないことを教えてくれます、間違ったことは忠告してくれ、良いことがあると自分のことのように喜んでくれる。だから良い友を得ることは悟りそのものとなります。
キリスト教の聖書でも、同じ場面が見受けられます。
「イエスはどこにいるのでしょうか」
「汝と友と、両者の間に絆が生じたのなら、そこに神がいる」と。
お釈迦様にはラーフラという子供がおります。お釈迦様が亡くなる前に「ラーフラよ、良き父を得て、あなたは幸せだったな。私も幸せだった、お前という良い子を得て」と言われました。