お坊さんの選択

信徒さんより「お世話になるお寺さんや住職さんを選ぶ時代ではないか?という記事が掲載されてましたよ。」ときき、新聞を広げてみた。

 「寺院の選択に競争の原理を」という投稿で、檀家制度ではなく自分の目で気に入ったお寺を選びましょうという内容であった。

 一妙寺設立にあたり「どんなお寺が良いか」多くの方から御意見をいただいたことがある。

おぼうさんが法話をしてくれないというご意見や、檀家に巨額の寄付金を募った住職、副住職、御婦人が高級外車を乗り回し悔しい思いをしている等、お寺さんの立ち居振る舞いについて批判の声をきくこともある。

 又、葬儀にはお金がかかるので戒名もお坊さんの読経もいらないという父の遺言どうりに簡素に葬儀を行った。故人の遺志どうりに送ることができ、満足していたところ菩提寺よりお叱りをいただいた。「埋葬を行うにならば宗派の慣習にのっとった葬儀をしないと、埋葬できない」といわれ、やむなく読経をしてもらい、戒名をつけてもらい、やっと埋葬できた。葬儀儀礼をおしつけられ、苦しかったという投稿もあった。

 宗教とは人の心である。安心や安全の提供が宗教の役割であると私はおもっている。儀礼をして苦しかったでは本末転倒である。

 しかし、人の心であるがゆえに競争原理を持ち込むことに矛盾があることを忘れてはならない。競争とは比較であり、資本主義である。身延山久遠寺と池上本門寺と、どちらの御本尊様が優れていると比較するのか。私にはできない。

 御布施は宗教行為である。「行為」であるから金額よりも回数に意味がある。10万円を1回することよりも、1万円を10回すること、寺院選択の基準が金銭であるならば信仰とは言い難い。

 住職の振る舞いを比較してお寺を選ぶならば、どうか住職ではなく御本尊様に御布施をしていると思っていただきたい。そして僧侶側は「このお坊さんにまたお経を読んでもらいたい。」「このお寺の檀家でよかった」と思っていただけるよう努力すべきである。

 信仰といえども、人の心は環境が作る。その環境作りが僧侶の勤めだ。

2013年03月01日