御本尊の遷座式

木遣(きや)り歌は、伐採した木を綱で引いたりするときに歌われる労働歌で、栄西上人が重いものを引き揚げる時に掛けさせた掛け声が起こりだと学んだことがある。樹木への畏怖(いふ)や情愛の深さがこもる。かつて、山で働く人が「自分たちは、木を切る、倒す、とは言わない。木を寝かす、と言うのです」と話しているのを聞き、やさしい言葉だと思った。
 
 木から生まれた仏像は多くの方の信仰を仰ぐ。そして完成時や遷座(仏像が座る場所を移す意)の折にはお経をあげ、失礼のないようにと、地域ごと、講ごとに手厚い供養がささげられる。
 
 11月6日、身延山からお迎えした御本尊へ一妙寺も遷座の御供養を信徒の皆さまと捧げさせていただいた。数十年もの長い月日、身延山志摩房にて鎮座していた御本尊は、参詣する信徒を励まし、霊山をお守りされていた。いったいどんなお気持ちで国立市に来られたのだろう、イチョウ並木が美しい大学通りはお気に召されたであろうか。信徒の皆さまが手を合わせてくださる姿に、お経がたくさんあがり、供養され金色に輝く御本尊を思い描く。
 樹木への畏怖(いふ)が木遣(きや)りならば、神仏への畏怖はなんであろう。決して御自分からは声を発せられない言葉を聞くことであろうか。「仏さまはほっとけ、ほっとけ。決して御自分からは喋らない」通夜説教の時に私がよく使う文言である。
 
 樹木の精霊を「こだま」と言い、山びこのこともそう呼ぶ。声が返ってくるのを、古人は木の霊の返事と聞いたらしい。それならば仏前でも同じであろう、御供養の気持ちは自分に返ってくる。なるほど、花の背をこちらに向けず、仏さま側に向けて飾るのはその顕れであろうか。 世には声なき言葉があちらこちらに見受けられる。心ある人たちの手で守られている信仰や御本尊は今日も光輝いている。畏怖(いふ)の気持ちがなければ輝きもみえない。色褪せしたとお叱りを受けないよう、今後も皆様と歩みたい。

2012年11月15日