開会の法門

私達の読む法華経が「諸経の王」と呼ばれる理由は、「開会の法門」を説いているからである―といえましょう。
 
 この世の習いとして、全てが二元対立、二元対極によって成り立っています。「陽と陰」「生と死」「光と闇」「親と子」「夫と妻」「精神と物質」「真と偽」などです。性質を異にするものが、一見対立しているように見える。法華経以前のお経は、これを事実として受けとめて、あなたにとって望ましいほう、自分にとって都合の良い方を選びなさいという教えでした。

 しかし、法華経はこうは説きません。精神が疲れたから、精神科へいこう―ではないんですね。足が痛いから整形外科の先生に診てもらおう―でもありません。足が痛かったら精神科と整形外科と両方行きなさい、子供が痛かったら親も診療を受けなさいというのが、この開会の法門です。    

 対立してるものを分けて考えないのが法華経の特徴です。法華経以前のお経は分別をして考えるが故に、女人や悪人は成仏できないとなりました。本当は対立などしていないよ、融合しているんだよというのが法華経であり、このことを示したジェスチャーが「合掌」というポーズです。合掌印を結んでいる仏さまは日蓮宗だけです、法華経を読むということは合掌をすることといえましょう。
 
 二元対極の捉え方は、物事を「善か悪」でみてしまい、これはとても恐ろしいことです。例えば夫婦喧嘩で考えましょう。夫婦喧嘩は妻が正しく、夫が悪かったという善悪を裁くためにするものではありません、夫婦が仲良くなる為の手立てを考える一助となるのが夫婦喧嘩です。妻は自分の分身であり、私達夫婦の心は一つ―と、そのレベルで物事を考えることが、「全てのものが平等に救われる」ことのまずはじめの一歩です。先ほどの例でも同じです。怪我した足だけを治療しても、精神が怪我をしていては社会復帰は難しい状態のままです。医者であるならば、専門部位だけでなく、心と身体、全体の治療を考えるべきです。

 そして我々も「あなたを敬います」という光の部分だけの合掌をしていてもいけません。「自分の中にはエゴがあり、他者を踏みつけても前に出たいという、度し難い自分がいることを受け入れます」という闇の部分も認めることによって、はじめて開会の法門が成立します。
 
善悪の基準や、己の信念を手放すのは難しい修行ですが、「視覚にとらわれない生き方」と申しましょうか、大切な物ほど隠れているものです。精進しましょう。

2012年09月01日