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新しい寺をつくった住職たちの物語 2015年2月25日(水) 記者 鵜飼秀徳

 

わが国の仏教寺院は、歴史を遡れば数百年以上、中には1000年を超える古刹が少なくない。  

 

日本最古の寺は、蘇我馬子によって西暦596年に(推古4年)建立された飛鳥寺(奈良県明日香村、旧法興寺)だ。木造建築物として現存する最古の寺は、607年(推古15年)に開かれた法隆寺である。  古都にある古刹・名刹でなくとも、全国の無名寺院もまた、気の遠くなるような時を経て、連綿と受け継がれてきた歴史を持つ。  

 

「仏教や寺の存在意義は歴史の深さにこそあり、信仰の根拠もそこにある」と言う人は多い。  

ところが寺院の系譜をたどれば、ある時期、全く寺が建てられなかった空白時期が存在することが分かる。 空白期間はおよそ250年間の長きにわたっている。それは江戸初期に当たる1631年(寛永8年)、幕府によって「新寺建立禁止令」が発布されたのが始まりだ。明治期に入れば、今度は新政府による廃仏毀釈が始まり、新寺建立はまたお預けとなった。ようやく信教の自由が認められ、仏教教団が再び布教を始めるのは、廃仏毀釈が完全に終わる1877年(明治10年)以降のことだ。  

こうして見ると、日本に分布する寺院は、400年以上の歴史を持つ古い寺か、150年未満の若い寺かに大別できそうだ。寺院建立の歴史に詳しい日本宗教学会理事の武田道生さんによれば、全国に7万7342ある寺のうち、およそ10%程度が明治以降の新寺だという。  

そして、つい最近、産声をあげたばかりの寺がある。新しい寺の住職たちの奮闘記を紹介したい。

 

日本で最も歴史の浅い寺 東京都国立市にある日蓮宗・一妙寺は日本で最も新しい寺かもしれない。2014年11月3日に落慶(※)したばかりだ。 ※らっけい=寺院の新築や改築を祝うこと。  

 

甲州街道に面する一妙寺は、一見すればそれが寺だとは思えない佇まいだ。外観は白で統一され、モダンな一戸建てのよう。荘厳な雰囲気は感じられない。「小さなお寺」と書かれた看板だけが、ここが寺であることを示している。  

 

寺が若ければ住職も若い。赤澤貞槙さんは33歳で、1児の父だ。澄んだ目が印象的な若和尚さんである。訪れた1月下旬、寺の扉を開けると、張りのある読経の声が聞こえてきた。  「この寺を建てる前は、別の場所に2LDKの賃貸物件を借りて布教所にしていました。私はこの身ひとつで、いよいよ、新しいお寺づくりという旅を始めたのです」  

 

赤澤さんは語り始めた。  

 

赤澤さんは、神奈川県川崎市のサラリーマン家庭に生まれた。在家の出身である。母方の祖父母が敬虔な日蓮宗信者で、日頃から仏壇に手を合わせる姿を見ながら育った。  

祖父母の影響を強く受けた赤澤さんは、早くから仏教や僧侶に興味を抱き始めた。中学3年生の時、日蓮宗の総本山・身延山久遠寺に参る機会を得た。その時、「僧侶になれという暗示を受けた」ことで、仏道に入る決心をする。  一時は両親に反対されたが赤澤さんの決意は固く、宗門の身延山高校仏教コースに進学。同コースは一般人にも門戸が開かれているが、ほとんどが寺の子弟で、彼らは自坊の後継者として入学してくる。赤澤さんは、そうした「生まれながらのお坊さん」と共に、仏教や宗門の基礎的知識や作法などを体得していくため、厳しい修行生活を開始する。  

 

高校卒業後は宗門の立正大学進学と同時に東京都・日暮里の善性寺に随身(※1)として住み込み、20歳で35日間の信行道場を成満(※2)。晴れて日蓮宗僧侶の資格を得た。26歳の時には100日間の荒行を達成した。 ※1 ずいしん=住職を補佐する役割の僧侶。 ※2 じょうまん=修行を達成すること。  

赤澤さんは在家の出ではあったが、脇目も振らず、宗門のエリートコースを無駄なく、着実に歩んできた。  

 

しかし、赤澤さんが「住職」になるには高いハードルがあった。世襲できる寺院を持たないからだ。自坊を持たない僧侶が住職になるには、ツテをたどって空き寺(無住寺院)を見つけるしかない。ところが、大抵の空き寺は僻地にあって、檀家も少なく、仮にそこに入っても食べていくのは難しい。  

 

あるいは、どこかの寺の養子に入ったり、大きな寺院の職員として雇われたりして経験を積み、将来的に住職に昇格する手段もあるにはあるが、時間と忍耐、そして何より「縁」が必要だ。

 

 だったら、一から自分で寺をつくりたい――。  

そう考え始めた赤澤さんの背中をタイミングよく押したのは、当時できたばかりの宗門の開教制度だった。開教とは、新たに寺をつくり、布教の拠点にすることを意味する。  開教は日蓮宗以外の他宗でも近年、積極的に取り組んでいる。まず浄土真宗が早くから開教制度を整備し、1990年代半ば以降には浄土宗や日蓮宗などが続いた。

 

 仏教界が開教を推し進めようとする背景には、地方から都市への人の移動、核家族化などの社会構造の変化がある。つまり、各教団は現代の日本の人口分布に合わせ、寺院を再配置する必要に迫られている訳だ。

 

 理論的に考えれば過疎地にある寺は、人の多い都市部へと、戦略的に移転させることが理想的だろう。だが、伝統仏教の場合、そうしたことはできない。各寺院はそれぞれが宗教法人格を有しており、宗本部とて移転させる権限はない。寺院の移転ともなれば、檀家が置き去りになりかねない。つまり全国に散らばる寺をパズルのように組み替えて、再配置することは極めて難しいのだ。

 

 この、いびつな寺院分布を是正する唯一の方策として、「開教」がある。

 開教場所の条件は、各宗派によって若干異なるが、(1)宗門の寺院が少ない地域(同門寺院の縄張りを侵さないこと)、(2)人口が増加傾向にある都市周辺部(経済的に自立できる環境であること)である。  

 

こうした条件が整った場所に新寺を建設する場合、宗門から助成金が下りる仕組みになっている。  

開教制度は、寺に生まれたけれども、自坊を継げない次男、あるいは赤澤さんのようなそもそも寺を持たない在家出身者が、「一国一城の主」になれる機会でもある。 仏壇のない家庭がターゲット 日蓮宗の場合、宗が定めた開教地の1つに国立市エリアがあった。国立市の近年の人口動態は増加傾向にある。地方から職を求めて上京してきた若者が、生活基盤を安定させ、子供をもうけ、住まいを選ぶ魅力的な場所がこの国立エリアと言える。

 

 「私がポイントにしたのは、ここ国立エリアでは一戸建ての持ち家率が低く、マンションが多いという点に着目したからです。つまり、布教のターゲットは“土地の人”ではなく、“新しくこの街に来た人”。端的に言えば、“仏壇を持っていない人”です。こうした寺との付き合いを持たない人が国立エリアには多く住んでいて、新しく寺をつくればきっと、集まってくれると踏んだのです」  布教のスタートは、現在の場所から2kmほど離れた賃貸の一軒家だった。玄関に寺の看板を掛け、リビングルームに段ボールで簡易祭壇をつくっただけの手作り感満載の寺。墓地もなければ檀家もゼロ、のスタートだ。  

 

まずは寺の存在を知ってもらうため、政治家と同じように毎朝、国立駅頭に立ってビラを配り、辻説法を開いた。ところが足を止めて話を聞いてくれる人は皆無。ひと月の間、駅前に立ち続けて立ち止まってくれた人が1人いたか、2人いたか……。  

「誰も相手にしてくれない状態でしたが、そのために修行を積んできましたから。不思議と精神的には満たされた状態でした。しかし、焦りはありました」  

この頃、赤澤さんには生まれたばかりの長女がいた。 戒名ひとつにしても・・・ 先の見えない辻説法を続ける赤澤さんに救いの手を差し伸べたのは、僧侶仲間だった。自分たちの寺の葬儀や法事の手伝いをしないか、と誘ってくれたのだ。  赤澤さんに千載一遇のチャンスがやってきた。赤澤さんには、あたためていた腹案があった。それは「記憶に残る仏事」をすることだった。

 

 葬儀には、喪家や参列者の他にも葬儀業者や花屋、返礼品業者など様々な人が参加している。

 「葬儀に関わるすべての人の心を打つ儀式をしようと思い、研究していました。葬儀にひと手間かけることで、とても感動的なものになると考えたのです。分かりやすいたとえで言えば、納豆を人に提供する時、パックのまま出すのと、美しい器に盛り直してネギを添えて出すのとでは、全く別のものになりますよね。要は、それと同じことです」(赤澤さん)  

 

それは、葬儀会場で喪家と対面するところから始まる。控え室で沈香(じんこう)を焚いて待ち受ける。戒名の授与の際には金襴の敷物を恭しく広げ、その場で墨書きして披露する。戒名の由来を文書にして添え、丁寧に説明する。戒名の授与ひとつとっても、厳かな空気がその場に流れる。  

 

演出的、と言えばそうかもしれない。しかし喪家や関係者の目には、そうした手の込んだ「仕掛け」が新鮮に映る。

 なぜなら、これまでの寺檀関係者による葬儀が、マンネリとなっていたからだ。僧侶も檀家も、仏事を「こなしている」だけだった。だから「高いお布施を取って、大した葬式じゃなかった」と不満を口にする遺族が多い。「葬式仏教」と揶揄される原因も寺檀関係のマンネリズムにある。  

 

「仏事の細部にこそ、仏教精神が宿ると考えたのです。葬式や仏事に熱心な僧侶には批判が集まりがちですが、私は仏事こそが一般社会と僧侶をつなぐ大切な接点だと考えています。『葬式坊主』と言われても、その場できちんと法を説けばよいことです」  葬儀が終われば、驚くような反応があった。  「こんなに感動した葬儀は初めてだ」「次の法要の際にもお願いしたい」「あなたの説法の続きが聞きたい」――。  

 

以前、街頭演説では「怪しい宗教の人」として誰も相手にしてくれなかった赤澤さんだったが、国立市民の赤澤さんに対する見方は徐々に変わり始めた。法事で指名がかかることが増え、寺に足を運んでくれる人も現れた。現在、年間100人というペースで信徒が増えているというから、驚きだ。  

 

宗からの助成金と銀行からの借入金、少しずつ貯まり始めたお布施を元手に賃貸を離れ、今の場所に新生「一妙寺」を開いたのは2014年の秋のことであった。

 

 赤澤さんのケースを見ると、「葬式仏教が、仏教の衰退や崩壊を招いている原因」とは言い切れない。  

宗教活動だけで食べていけない寺院の中には、「サイドビジネス」を展開しているところも多い。幼稚園経営や駐車場経営、物販などだ。それはそれで、寺院を存続させるためのひとつのアイデアだ。  しかし、赤澤さんの試みの特徴は、僧侶という立ち位置を一切変えず、より良いものを追求する姿勢にある。そうであれば自ずと人々は寺に集まってくれる、という考え方だ。  こうして見れば「宗教崩壊」は、結局は僧侶が寺という「安全地帯」に留まりながら、自分磨きを怠っていることに起因するのではないか。  

 

都会で失われつつある寺や僧侶に対する信頼を取り戻すための未来図が、赤澤さんにはしっかりと見えているのだろう。

 

【記事紹介】日経ビジネス 掲載


2015年02月25日